元阪神・八木裕が明かす「片道23キロ自転車通学はトレーニングにならなかった」
元阪神タイガースの外野手として活躍し、現在は野球評論家として知られる八木裕氏。その輝かしいプロ野球人生の裏側には、想像を絶する過酷な高校時代があった。1981年に岡山県立岡山東商へ進学した八木氏は、当時から高い評価を受けていた本格派右腕。しかし、その才能は思わぬ形で蝕まれていくことになる。
最大の要因となったのが、片道23キロにも及ぶ自転車通学だ。家から学校までは電車もバスも通っておらず、寮に入る選択肢も「入らない方がいい」と言われて断念。残された道は自転車で山を越えるしかなかった。「朝は5時45分には家を出ていた」と振り返る八木氏。途中には金甲山という山もあり、行き帰りの道のりはまさに試練そのものだった。
エアコンなしで部屋を涼しくするならこの一台Airio Pro 「よく自転車通学もトレーニングになったのではと言われるんですけど、はっきり言ってトレーニングにはならなかった。疲れるだけでした」と八木氏は断言する。疲れ果てて坂を登れず、親に車で迎えに来てもらったこともあったという。その過酷さは「東商の1年生をもう1回やれと言われたら、みんな“やらない”って言いますよ」と語るほど。日々の練習をこなすだけで精一杯で、体はどんどん細くなっていくばかりだった。
そんな環境が、投手としての成長を大きく阻害した。「軟式から硬式になったのに加えて、やっぱり疲れていたので、投げ方が悪くなったり、肘を痛めたりしてボールが行かなくなった」。1年夏にはベンチ入りしたが、試合に出場することはなく、岡山大会準決勝で敗退。1年秋も野手として出場したが、投手としてはほとんど投げられず、「たまに投げても全然ボールが走らなくて、よく打たれていた」と振り返る。
追い打ちをかけたのが、高校2年時に発生した左膝の怪我だ。スライディングで半月板を痛め、手術を受けることに。夏の大会には何とか間に合わせたものの、「まともに走れない状態で試合に出ていた」という。当然、投手として投げることはできず、打つのがやっとの状態だった。
それでも八木氏は岡山東商の4番打者として奮闘。準々決勝では、後に巨人や中日で活躍する川相昌弘投手を擁する岡山南を撃破。準決勝も突破し、甲子園まであと一歩に迫るが、決勝で関西に1-13の大敗を喫する。「先発は同級生だったんですけどボロ負けでした。僕が投げたとしても、もうパフォーマンスを出せないのは分かっていたので、残念としか言いようがない」と無念の表情を浮かべた。
こうして疲弊と故障に苦しんだ八木氏は、3年春にはアンダースロー投手に“変身”。プロ入り後は外野手として阪神で活躍することになる。もしあの過酷な通学と練習がなければ、全く違った野球人生があったかもしれない。八木氏の回想は、高校野球の練習環境の在り方に一石を投じる内容だ。
夜間運転用メガネが今ドライバーに急増中ナイトライダー 今、あなたにオススメ