下村幸男氏を悼む JFA田嶋名誉会長と川淵相談役が追悼コメント
日本サッカー界のレジェンドが、静かにその生涯を閉じた。サンフレッチェ広島の前身・東洋工業蹴球部で選手、監督として活躍し、同クラブのアドバイザーや参与を務めた下村幸男氏の訃報を受け、日本サッカー協会(JFA)の田嶋幸三名誉会長と川淵三郎相談役が追悼のコメントを発表した。
下村氏は広島市出身。現役時代はゴールキーパーとして1956年メルボルンオリンピックに出場するなど、日本代表として活躍した。その後、東洋工業蹴球部の監督に就任すると、日本サッカーリーグ(JSL)で前人未到の4連覇という偉業を達成。サンフレッチェ広島創設後も、アドバイザーや参与としてクラブの基盤構築や地域スポーツ文化の発展に尽力してきた。
デニムに合う。履くだけで「ちょいワル」Tapoon 田嶋幸三名誉会長は、自身が日本代表に初選出された際のエピソードを明かし、下村氏との出会いが人生を変えたと振り返った。「私が日本代表に初めて選出されたのは大学4年生の時でした。教育実習中だった私を検見川の合宿所で遅くなるまで待っていてくださり、熱心に指導してくださいました。下村さんとの出会いがなければ私は教員になり、今とは全く違った人生を歩んでいたでしょう」と述懐。さらに「下村さんという素晴らしい指導者との出会いがあったからこそ、指導者養成においても選手育成においても『人を育てる』ことを基本に取り組むことができました。下村さんの教えと、多くの先輩方が築こられてきた基盤があったからこそ、今日の日本サッカーの発展があります」と、その功績をたたえた。
川淵三郎相談役は「天寿を全うされたとはいえ、大好きな先輩を失った悲しみは計り知れません」と哀悼の意を表しつつ、下村氏の人物像を「決して驕ることなく、威張ることもなく、常に謙虚で誠実な方でした」としのんだ。川淵氏は下村氏との深い親交を振り返り、1977年に下村氏から「実行委員になってほしい」と声をかけられ、その後1979年には逆に川淵氏が下村氏に代表監督を依頼したという。下村氏はその初陣となった第7回日韓定期戦で勝利し、続くフィオレンティナ戦では引き分けるなど、短期間ながら日本代表監督としての手腕を発揮したという。
「素晴らしい指導者でした。日本サッカーへの多大なる貢献に心から感謝の意を表します。安らかにお眠りください」と締めくくった。
下村氏の遺した功績は、日本サッカーの歴史に深く刻まれている。その教えは、これからも多くの指導者、選手に受け継がれていくだろう。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
これは高圧洗浄機と同等の強さで、電力不要BlastPro 今、あなたにオススメ